WEEKLY REPORT | 第775号 No.16 2009年12月7日 |
ロータリーの未来はあなたの手の中に |
前例会の記録 | 本日のプログラム | 次例会の予定 |
○11月30日(月) 第774回 ○ソング:それでこそロータリー ○行事:卓話 (担当:ニコボックス委員会) |
○12月7日(月) 第775回 ○ソング:君が代・奉仕の理想 ○行事:総会 (次年度理事・役員発表) (担当:会長・幹事) |
○12月12日(土) 第776回 ○行事:忘年家族例会 (例会変更) (担当:出席・親睦) |
会長挨拶代理 篠田伸実副会長 | |||||||||||||||||||
先週の水曜日、広江さんの事務所の創立30周年パーティへ出席しました。新聞によりますと出席者数が二百数十名という記事が載っておりました。誠に盛大なパーティでございまして、広江さんがいかに成功されているかがわかりました。広江さん、おめでとうとざいました。 話は変わりまして、世の中いろいろ異常気象がございまして、我々にはピンとくるものとこないものがございますが、先週、サウジアラビアで大雨が降って120人亡くなる被害がありました。被害に遭われた方のご冥福を心よりお祈り申し上げます。サウジアラビアは行ったことはありませんが、あんな砂漠みたいなところで、川も見たことがないのに、大雨が降って水害で人が亡くなったなんて考えられない話で、しばらくテレビで見ていました。 気候的に一番安定していました数百年が今だといわれておりまして、こんなことは地球の環境、気温等をみますと、ほんの一瞬の気まぐれで、今を迎えているような気がいたします。非常に寒い夏があったり、暑い夏があったりします。サウジアラビアの話を聞きますと、我々が感じてる以上に変化しているのかと、実感しています。我々もロータリー活動を通じて改良できる方法を見出してやっていきたいと思います。今日は会長の代行で挨拶をさせていただきました。ありがとうございました。 |
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ニコボックス委員会 (担当 堀場弘一委員) | |||||||||||||||||||
◎中島幸宣幹事 広江さんへ、起業30周年おめでとうございます。あんたは偉い!祝賀会は所用のため、欠席いたしましたので、お祝いとお詫びの意味で投函をさせていただきます。 ◎広江武典君 広江アソシエイツ特許事務所設立30周年記念レセプションに大勢の皆さまに来ていただき、本当にありがとうございました。おかげさまで盛会でした。 ◎篠田伸実君 広江さん、先日の30周年おめでとうございました。盛会でよかったですね。 ◎武藤容治君 広江さん、30周年おめでとうございました。久々にたくさんのエトスOBの方にお会いできて楽しかったですね。 中島さん、明日よろしくお願いします。 ◎田口利満君 明日から師走というのに、なんという暖かな陽気が続くのかと・・・。喜ぶ人ばかりではないでしょう。 広江先生、先日は30周年おめでとうございました。盛大なパーティを楽しませていただきました。 ◎堀場弘一君 本日は卓話の指名をいただきました。静かな休息の時間として過ごしてくださって結構です。 |
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委員会報告 | |||||||||||||||||||
◎幹事報告 中島幸宣幹事 ・明日2時から、当ホテルにおきまして自民党および武藤家の合同葬が執り行われます。 ・次回12月7日の例会は、次期理事役員の発表をいたします。 ・本日例会終了後、緊急理事会を行ないます。
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内部卓話 (担当:ニコボックス) | |||||||||||||||||||
私が小学校4年生か5年生の時に、岐阜で空襲がございまして、幸いなことに私はちょうどその直前に疎開をしておりまして、直接空襲には遭いませんでした。その年は、確か、私のかすかな記憶では、春から岐阜の方県の農家の離れに住まわせていただいて、「せっかく縁があって来たのだから小さくても手伝いをしなさい」と、言われまして、田植えの時や、夏の草取り、稲刈りの時、一通りお手伝いをさせていただきました。それが後々、何かあると「俺は米の一生を見ているからな」と自慢みたいに話していました。一番つらかったのは、どなたに聞いてもわかるかもしれませんが、田の草取りというのでしょうか。腰をかがめて水田の水をかき混ぜながら草を取るというのが一番つらかったですね。それから、母屋のご主人が「息子と二人でちょっと開墾したら」とそそのかされまして、「ああ、いいよ」って始めたら、それは、竹やぶの後の土地で、掘れば掘るほど、根っこに引っかかって大変でした。このテーブルの長さくらいの畝を2つ作るのがやっとでした。ただし、作物は何でもいいからということで、大豆を蒔きました。大豆の収穫は、2人がやったことだからと、全部いただきました。ですから、そんなに苦しいとは思わなかったのですが、何とか生きてこられたといいますか・・・。うれしかったのは、小学校の成績がものすごくよかったことです。昔は、優・良・可でしたが、私一人だけが全部「優」でした。「町から来ているのだから当たり前や」と言われましたが・・・。戦争が終わってから、戻ってきて、おふくろに中学の受験と言われ、受験の意味もよくわからなかったのですが、何か試験を受けなければ学校へ行けないのだと、ずいぶんうるさく言われた記憶がございました。5年生の終わりか6年生になる前だったと思います。「お前たちは、今度から中学には無試験で行けるからいいな」と言われました。よく聞いたら、当時は6・3・3制に変わる時で、旧制の中学ではなく、新制中学へ全員が自動的に入れるというその最初の年でした。その意味もよくわからなかったのですが、取りあえず、試験勉強しなくてもいいやと、喜んだ記憶があります。戦後のどさくさの感じで、中学で非常に印象に残っているのは、代用教員の先生が多かったことです。名古屋大学大学院の学生の人で、代用教員で来ていた先生に私も教わりました。学校の生徒会や学級の役員は選挙で選ぶのが普通だと思いますが、その初めての選挙で、どうしていいか何もわかりませんでした。担任の先生が、とにかく何でもいいから立候補しなさいと言われましたが、誰も手を挙げませんでしたので、5人くらいを無理やり生徒会の役員に立候補させられました。それが人前でしゃべった一番最初です。何をしゃべったか何も覚えていないのですが、その時は、学年の委員長をやりなさいということで、全校生徒の前でしゃべりました。何を言っていいかわからなくて、演壇に上がりまして、台を横へ向けまして、「私がしゃべるのはこちらです。他の人は聞かなくていいです」と、最初にそう言ったのだけを記憶しています。後は何を話したか全然覚えていません。 私は梅林中学でしたが、当時、梅林中学と島中学の二校の卒業生は、今の北高に行くと決まっていました。その当時はまだ岐阜市立でしたが、北高を受験しました。こちらから行くと手前に岐阜高校がありますので、そちらではダメですかと聞くと、「規則で決まっているからだめです」と、かなり厳しく言われた記憶がございます。ところが、お父さんがお医者をやっていた子が要領よく、くぐり抜けて岐阜高に行きましたので、腹が立ちました。住所を移動させてやったようです。世の中は皆が正しいことを必ずやっているのではないのだと、しみじみ感じました。その年の夏休みに神戸にいる叔母が、遊びにおいでと言うので遊びに行きました。これが私の人生の最初の転機になったのですが、叔父が、「歩いてすぐ、高校があるから散歩しがてら見に行こう」と連れて行ってもらいました。山の中腹にあって、目の前に瀬戸内が広がっていました。「景色がいいだろう」「いいね」「お前こっちに転校しないか」とその場で、「今ちょうど転校試験を受け付けているから、明日までだから、すぐ帰って書類をもらって来なさい」とすぐ家に連絡して、高校の先生にも翌朝書類を用意してもらいました。朝までに岐阜へ戻って、書類をもらって、またすぐ神戸へ行きました。試験を受ける時「これは無理や」と思いました。1教室60人くらいが試験を受けに来て、合格するのは5〜6人だということでした。ですから気楽に試験を受けたのですが、そういう時の方が引っかかるのですね。それですぐ転校しました。高校は今でいう進学校でしたし、よそから来たということもあってあまり楽しい思い出はありませんでした。ただ一人だけ親切な子がいまして、「勉強は自分次第だから、わからない時は自分から聞きに行かなければ、待っていても誰も教えてくれないよ」と言われました。自主的にやるということはそういうことだと叔父にも言われました。それからは先生に自分から聞きに行くようになりました。その頃に人が教えてくれるのを待っていてはいけないということをしみじみ感じました。それが逆に、人の言うことより自分の考える通りやるという悪い面もあったりします。就職の時がそうでした。一人っ子でしたし、親は就職するなら銀行とか商社へ行ってほしかったようです。自分では違う方へ行こうと思っていたので話が合いませんでした。自分で受けに行ったのは、恥ずかしながら落ちたのですが、朝日新聞でした。関西大学の校舎で2千人くらいが受けて、採用されますのは十数名でした。そんな私のことを今から思うと、親も考えてくれていたようで、父から「NHKが募集しているようだ」ということでNHKの試験を受けることになりました。試験場では2千人くらいおりましたのでダメだと思っておりましたが、あきらめて途中で帰らなくてよかったと思いました。勤めに入りましてから、最初は金沢でした。住んでしばらくして大変気に入りました。お酒がうまいのです。勤め先で一番びっくりしましたのは、アナウンサーの人が大変お酒が強いことです。よく一緒に飲みました。金沢の後は名古屋勤務でした。その時に報道番組を担当しました。 職業奉仕とロータリーではよく「We Serve.」「I Serve.」の使い分けについて言われますが、私はそれは単純に仕事を通じて貢献できると、それだけで納得できると思っております。自分の仕事を生かして、生かされて、何とかロータリーに貢献でき、世の中に貢献できると思います。そういう単純な考え方でよいと思っております。会員増強については、伊藤秀雄さんが「私はいつでも30分の卓話に参りますので声を掛けてください」とおっしゃっています。お客様を皆さんでお招きすることになりましたが、そこで気になりましたのは、エトスロータリーは少人数なので、お客様がおみえになった時にどう思われるかということです。少人数なので和気あいあいとしてやっているという雰囲気であればいい印象になると思います。ところが、あまり儀礼的なやり方であれば、良い印象がないかもしれません。せっかくお客様をお招きするのですから、お客様に気持ちよく帰っていただくためには、我々はどうしたらいいのか。事前にしっかり皆で打合せをしておくということが是非必要だと思います。自分が人にしてもらえるように、自分も一生懸命人にしてあげよう、ロータリーでもしてあげよう、というのが一番いいのではと思います。 |
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2009-2010週報/年間行事予定 | |||||||||||||||||||
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