◆樫詰庄二委員長 『シルクロードの旅人』
『シルクロード』といいますと皆さん、どういう印象を持っていますか。私は中学生頃から新聞等見て憧れていて、やっと15年ほど前くらいから行けるようになりました。
シルクロード自体は、中国が解禁してから37、8年くらいしか経っていません。井上靖先生とかは、わりと早い時期に行っていました。今日は地図をお配りしました。真ん中が西安、昔の長安でスタート地点です。唐の時代に100万人くらいの人口があったそうで、非常に栄えた町です。今日は私もまだローマまで行っていませんので、地図の左の端の方にあるカシュガルまでお話をしたいと思います。
長安は有名な「兵馬俑(へいばよう)」があります。兵馬俑(へいばよう)というのは、泰の始皇帝が作った軍隊のいわゆる兵隊の土人形で、今も発掘が続いています。これは農民が井戸を掘る時に偶然に発見したものです。私も2回ほど行っていますが、その発見者(?)だという人に写真集にサインをしてもらいました。西安というのは観光地が多く、有名な楊貴妃と玄宗皇帝が一緒に過ごした華清池というところがあります。その近くには泰の始皇帝のお墓があります。お墓といってもこれは想像がつかないくらいの大きさで金華山の半分を切って上の部分くらいの大きさがあります。大変なものです。市内に戻ると玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)が経典を納めた大雁塔、小雁塔があります。西安はシルクロードの西の門といわれ、その他色々と観光地として賑わっているところです。
その近くに万里の長城があります。距離で5,000キロ以上あると言われています。秦の始皇帝の時代にはじまり、明、漢の3つの時代に渡り造られ、建造物としては世界にも例をみないものだといわれています。北方騎馬民族、匈奴(きょうど)や突厥(とっけつ)などから、国を守るために造られました。特に有名な嘉峪関(かよくかん)には前戦基地になった砦(とりで)があります。
一千人くらい軍隊がいたといわれる砦です。その当時はいわゆる罪人を連れてきているものですから、統制がとれていなくて軍隊の様をなしていなかったそうです。匈奴(きょうど)というのは馬に乗って、風の如くやって来ては、侵略をして去って行くということで、防ぎようがなかったといわれています。
匈奴(きょうど)に対して、唐、あるいは明、秦の時代は、日本でもありましたが、政略結婚をして侵略から守ろうとしました。チベットのほうからも攻められましてやはり、政略結婚で侵略から守ろうとしました。
ずっと行きまして有名な敦煌(とんこう・トゥンホアン)があります。嘉峪関(かよくかん)から、さらに西のほうへ向かって、この辺りは砂漠の真っ只中です。当然砂漠ですので、山に木もなければほとんど何もない。飛行機から見ていますと、とたんに青いものが見えてきて、大変感激するところです。敦煌(とんこう)には、莫高窟(ばっこうくつ)といいまして、いわゆる祠(ほこら)が約1000ほどあったといわれています。現在見学ができるのが490ほどあります。敦煌というのは、歴史的に非常にいろいろなことがございました。観光で皆さん壁画を見たりするのですが、自由にカメラの持込とかは一切できません。懐中電灯で照らしながら、説明を聞き、見るという程度です。歴史的に有名なことは、敦煌文書(とんこうもんじょ)という、井上靖先生の「敦煌」という小説にもでてきますが、これは今も大変話題になっています。敦煌文書(とんこうもんじょ)は、ほとんど中国から持ち去られてしまっていますが、その論争が今も学会などで続いています。
国内が内乱で目が届かないうちに、フランス、ドイツ、アメリカ、日本などに持ち去られました。日本の大谷さん、イギリスの探検家オーレル・スタイン、フランスの東洋学者ポール・ぺリオなどによって特に日本とフランスとイギリスの3国へ多く流出しました。持って行ったことに対しては、賛否両論意見が分かれています。そのままにしていたら、どうなっていたかわからないが、持ち去られたことで大英博物館など各国の博物館に残っているので、ある意味では持ち去られて良かったという意見もあります。ただ、ドイツでは第二次世界大戦で、相当なものが戦災にあってしまい不幸であったといえます。
右のほうへ上がっていきまして、トルファンというところがあります。ここは、「ベゼクルク」ですとか、「交河故城(こうがこじょう)」、「高昌故城(こうしょうこじょう)」があります。今はイスラム教ですが、その当時は仏教国で、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)が、630年頃インドに行った時、訪れたとされています。それからトルファンには有名な「ベゼクルク」があります。洞窟に絵が描いてあります。もう1つ交河故城(こうがこじょう)は軍事基地だったところです。非常に暑く、気温は40度以上に上がるところです。ここには有名なアイディン湖があります。海抜がマイナス154メートルで、ヨルダンの死海に次いで世界で2番目に低い位置にあります。
ウルムチは、砂漠の中の大きな都会です。ウルムチというのはモンゴル語で「美しい牧場」という意味だそうですが、非常に美しい街です。ソ連との国境問題がありますが、道路がいざという時に飛行場になるようにと非常に広い道路が整備されています。ここには特に有名な「楼蘭(ろうらん)の美女」というミイラがあります。4,000年ほど前に楼蘭(ろうらん)というところで発掘されたものです
それからシルクロードというのは、西域南路、天山北路、西域北路、天山南路というルートがあります。玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)は、敦煌まで行って、敦煌から「クチャ」というところがあります。以前は「亀茲(キジ)国」といっていました。「クチャ」に立ち寄って、天山山脈を越えて「イシク」を通って、カザフスタンの一部を通ってアフガニスタンを抜けて、それでガンダーラへ行ったということですね。ガンダーラは今のパキスタンから、少し中国寄りのところにガンダーラの遺跡があります。私、6月に2週間ほど行く予定をしています。
クチャというのは昔は非常に仏教国でしたが、今は、いわゆるジンギスカンなんかに荒らされて残っておりません。玄奘三蔵は、「大唐西域記」に、マルコ・ポーロは「東方見聞録」(ともに自身が書いたものではありませんが)に同じようなことが書いてあります。
砂漠ですが、今の敦煌の砂漠と、タクラマカン砂漠とは全く違っていまして、タクラマカン砂漠は黄砂そのものです。私は、昨年の夏にこの「クチャ」から、「ニヤ(民豊)」まで縦断しました。約12時間かけて、砂漠の中を「ニヤ」まで行きました。非常に大変でした。砂漠というのはまっすぐに見えますが、高さが10メートルくらいの砂山になっています。その中の道路は、もともと石油を輸送するための道路でしたが、それが観光道路になっています。非常に幅は広くて道はいい道ですが、ただ、でこぼこがありまして、乗り心地が非常に悪い。砂漠には草木がありませんが、沿道約700Kmくらいを緑化の装置が整備されていまして、草がきれいに茂っています。砂漠は全く水がないのですが、地下から水を汲み上げています。敦煌辺りでは400mほど掘ると水が出るそうです。天山山脈とチベット側の崑崙(こんろん)山脈から雪解け水が浸み込んでいますから。天山山脈は、2,500Kmくらいありまして、幅は450Kmくらいで日本列島がすっぽり入るくらいの非常に大きな山脈です。高さは7,500Kmくらいあります。玄奘三蔵は砂漠で盗賊に会うよりも、山を越えたほうが安全だと考え、わざわざ遠回りをしたということです。
カシュガルは、「民族の十字路」といわれ、地図を見ていただくとわかるように非常に多民族が住んでいます。ウイグル族が中心です。
ホータンは有名なのは「玉(ぎょく)」ですね。中国では、金よりも玉(ぎょく)のほうが重宝がられたということです。敦煌にある「玉門関(ぎょくもんかん)」というのは、いわゆる関所で、玉(ぎょく)が出入りしたことから名前が付けられたそうです。天山南路へ出る関所だったところです。もう1つこちらも敦煌にあります「陽関(ようかん)」は、西域南道へ出るための門にあたります。
一番私が感動しましたのは、クチャにあります「クズルガハの烽火(のろし)台」です。ここへ行きたくて行きたくて、やっと昨年の夏に行ってきました。今では他の烽火台はほとんど残っていませんので、非常に貴重な存在です。敦煌にもありますが、クチャにあるクズルガハ烽火(のろし)台というのは、砂漠のど真ん中にあって、14〜5メートルの高さでそっくり残っています。ここは、やっと行くことができまして、非常に感動しました。ここの近くにもたくさん窟(くつ)があります。特に「キジル千仏洞」には、アフガニスタンで採れます非常に貴重な岩石、ラピスラズリを使って壁画が描かれていることで有名です。 |