WEEKLY REPORT
第526号  No.15  2003年11月10日
手を貸そう       "Lend a Hand"

本日のプログラム
前例会の記録
次例会の予定

○11月10日(月)  第526回
○ソング:君が代・奉仕の理想
○行事:地区大会報告
(担当 会長・幹事)

○10月27日(月)  第525回
○ソング:それでこそロータリー
○行事:職場例会
各務原航空自衛隊
(担当 職業奉仕)

○11月17日(月)  第57回
○ソング:我等の生業
○行事:
(担当 国際奉仕)


会長挨拶 篠田伸実会長
本日は職場例会ということで、各務原航空自衛隊へお邪魔することになっております。
今、日本人は平和ボケと言ってもいいほど、この平和があって当たり前の時代になっております。しかし、ここのところの北朝鮮やイラクの問題により、平和ということについて身近な問題として考えさせられることが多くなりました。日本は先進国でありながら、自衛隊に対し市民権が与えられておりません。これは世界でも珍しいことなのです。我々はもっと自分の国は自分で守るという意識を持たなくてはいけないと思います。また、それを次の世代に教えていく義務が我々大人にはあるのではないでしょうか。
せっかく、各務原という地元に航空自衛隊があるわけですので、今日は自衛隊のことを勉強し、正確に若者達に伝えていきたいと思います。

来客紹介 出席報告
 
本日のホームクラブ 先々週の補正出席率

 17/33 51.51% 

 27/33 81.81%

岩村職業奉仕委員長 説明
今日はこの後am11:00に自衛隊正門に到着し、基地を案内していただきますが、全て自衛隊の方の指示に従って行動いたします。
pm12:00より昼食をとっていただきますが、あちらで自衛隊食を食べていただき、pm1:00に解散という予定でございます。
注意事項といたしまして、基地内は機密事項や立入禁止箇所が大変多くありますので、単独行動は避け、係の方の指示に従うようよろしくお願い致します。

自衛隊案内

◎航空自衛隊岐阜基地第二補給処総務課 基地渉外室広報係長 寺島和彦ニ等空尉より説明
本日はよろしくお願いいたします。まず、私の自己紹介を簡単にさせていただきます。
私は昭和37年、三重県の四日市市に生まれ、地元の小中高校を卒業後、昭和56年に航空自衛隊に入隊いたしました。主に航空機整備の仕事に携わってまいりまして、これまでに埼玉県の熊谷、静岡県の浜松、山口県防府と勤務し、こちらに来る前には部隊幹部候補生として石川県小松基地に勤務しておりました。小松基地では航空機整備幹部として、戦闘機や練習機の整備に関わる仕事をしておりました。
こちらに来てからは、広報ということで渉外的な仕事をしており、主に部外者からの航空機等に関する問い合わせに対しご説明させていただく仕事をしております。
今年の4月からの勤務ですので、ご説明に至らぬ点もあるかと思いますが、よろしくお願い致します。

では、岐阜基地の説明と基地の歴史についてお話させていただきます。この岐阜基地の前身は旧日本陸軍の飛行場であり、もっと深く紐解いていきますと、軍用地として利用されましたのは幕末までさかのぼることになります。その時代ここを納めていた加納藩が日本の近海に近づいてくる外国船を打ち払うよう幕府の命令を受け、水田にも適さないようなこの土地を大砲の試し打ちの場所としたのだそうです。その後、明治9年に陸軍の砲兵練習場として正式に運用されることとなりました。
大正に入り、第一次世界大戦の勃発により、日本でも近代兵器への対応、いわゆる航空機、戦車、化学兵器の使用に至りました。そして、航空機の開発に乗り出すこととなり、航空基地第一号としてまず埼玉の所沢に、大正6年に第二号としてこの岐阜基地に飛行場が建設されることになったわけです。ちなみに所沢については昭和20年、既に閉鎖されているので、ここ岐阜基地は今も運用されている飛行場としては、日本でも最古の部類に入るといってもいいでしょう。
こうして陸軍の手により飛行場が建設されましたが、当時はフランスから航空関係の勉強をしており、その関係から輸入航空機ばかりを使っておりました。しかし、日本陸軍としても自国による航空機の生産に乗り出そうということになりました。当初は部内で航空機の開発に取り組みましたが、技術的、予算的に支障が出てきたため、大正11年、当時兵庫県にあった川崎造船所航空機部門を各務原に誘致し、航空機の開発にあたることになったわけです。それが現在の川崎重工の前身であります。これにより、初めて飛行場と生産施設の二大拠点が形成されたというわけです。
その後、昭和に入り戦争の時代に突入いたします。満州事変に始まり、日中戦争、太平洋戦争と戦争が拡大していくに伴い、近代兵器である航空機の生産もうなぎのぼりに増大していきました。それに伴いこの周辺に人々が集まり、工場等も増え、都市の外郭を現していったと言われています。
当時の航空機では川崎航空機が製作した「飛燕」が有名ですが、第二次世界大戦中にアメリカにも恐れられた三菱重工製作のゼロ戦の初飛行も、ここ各務原で行われたという話もあり、戦前、戦中においてかなりの試作機が各務原上空を飛んでいたと聞いています。
第二次世界大戦後、アメリカの占領下においては一時米陸軍の駐留地となりましたが、昭和25年朝鮮戦争の折には、陸軍の部隊が一時駐留した記録もあります。その後第二海兵隊も駐留したこともあります。
そして、昭和30年代初めに航空自衛隊への移管が始まり、昭和33年、正式に全面変換を受け
現在に至っております。
次に現在の岐阜基地についてご説明させていただきます。この広報館があります建物は基地で最も古く、大正9年に建築されたものであります。基地の外周は16km、面積は400万uで東京ドームが85個くらいは入る大きさであります。その中を距離2700メートル、幅45メートルの滑走路が東西に走っております。これが基地の主要滑走路でありますが、規模としましてはボーイング767という旅客機が十分離発着できるものであります。(注:ボーイングの機種テープで特定してください)
滑走路を境に南地区と北地区に分かれており、南地区には第二補給所部隊があります。ここでは航空機の部品関係を一手に扱っています。取り扱っている部品の種類としましては、40万アイテム程のものがあり、大きいものでは政府専用機から、練習機のような小型機にまで及びます。
次に皆様もお聞きになったことがあるかと思いますが、地対空ミサイルのパトリオットミサイルという地上からの航空機に対応するための部隊もこちらに配置されております。
その他、陸海空の共同機関としまして自衛隊岐阜病院もございます。これにつきましては厚生病院程の規模があり、小児科、産婦人科はありませんが、それ以外の科はございます。ベッド数は100床、人間ドックも受けられ、中京地区の自衛官、その家族の診療を行います。また、こちらに関しては診療行為のみならず、医療行為に勤務する自衛官の国家資格取得のための教育も行っております。 平時は自衛官、若しくは家族の診療を主な目的としておりますが、有事または災害時にはその限りではございません。過去には中華航空機墜落事件の折のけが人の手当て、阪神淡路大震災の折には医療関係者が何人か派遣されました。最近では各務原地区での山火事の折、近くの養護老人ホームの方の非難のためスタンバイしておりました。
次に北地区ですが、ここには見学者が一番注目されている飛行開発実験団という部隊がございます。ここは主に航空自衛隊で使用している航空機の試験を担任している部隊であります。ここには戦闘機、練習機、輸送機といった種類の航空機を30機程保有しています。 また、試験のための飛行のみならず、訓練のための飛行も行い、テストパイロットを養成する教育も同時に行っています。飛行エリアとしましては、大半は日本海の洋上で試験、訓練を行います。戦闘機ですと日本海洋上まで20分弱で到達することができます。その他、訓練エリアとしては遠州灘沖、中部山岳地方、若狭湾もございます。
かけあしで説明いたしましたが、これから基地内を見学していただきたいと思います。

◎昼食
◎航空自衛隊岐阜基地第二補給処総務課 基地渉外室長 井上敏夫三等空佐挨拶


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