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WEEKLY REPORT
第692号  No.14  2007年11月5日
ロータリーは分かちあいの心

前例会の記録 本日のプログラム 次例会の予定
○10月29日(月)第691回
○ソング:我等の生業
○行事:外部卓話
(担当:クラブ奉仕)
○11月5日(月)第692回
○ソング:君が代・奉仕の理想
○行事:内部卓話
(担当:国際奉仕)
○11月10日(土)第693回
○行事:岐阜B分区I.M.
(例会変更)
(担当:会長・幹事)

会長挨拶 (大野茂夫会長)
 今日は月末の皆さんお忙しいところお越し頂きましてありがとうございます。本日の卓話講師、村瀬和子先生でございます。どうぞよろしくお願いいたします。本日クラブ奉仕委員会担当の尾藤英邦先生からご案内を頂いておりますが、「能に描かれた人間群像」ということでお話をちょうだいいたします。どうぞよろしくお願いいたします。
 11月3日はご存知のように文化の日でございます。ということで今日は特に文化の香り高いお話をしていただけると思います。15日は七五三でございます。私のところにも孫が2人おりまして、ちょうどこの11月に大阪に住んでいる息子と名古屋に住んでいる娘のところへ、それぞれお祝いの出費が重なりますが、孫のことですから奮発しようかと思っておるところです。
来客紹介 出席報告
(卓話者) 村瀬和子様 本日のホームクラブ
 11 / 19 (57.89%)
先々週の補正出席率
 12 / 19 (63.15%)
ニコボックス委員会 (担当 栗林裕樹委員)
○大野茂夫会長
 村瀬和子様、本日はようこそお越しくださいました。今日の卓話よろしくお願いします。
○尾藤英邦副会長
 村瀬和子先生、本日はよろしくお願いいたします。
委員会報告
◎幹事報告 柳原英三幹事
・次回I.G.M.の場所はまたご連絡をいたします。
・11月10日 I.M.のご案内をテーブルへお配りいたしました。場所はグランドホテルですが、午前中でございますのでよろしくお願いいたします。
外部卓話 (担当 クラブ奉仕委員会)
『能に描かれた人間群像』 村瀬和子様
◎プロフィール
・詩人・日本現代詩詩人会会員
・茶道裏千家、小笠原流いけばな教授
・詩誌「火牛」「存在」同人
・岐阜市青少年会館における「能の文学を語る会」講師
・詩集「氷見のように」で現代誌女流賞、中日詩人賞、岐阜県文化奨励を受賞
・平成10年度現代詩、農学評論部門にて岐阜県文化顕彰。
・著書に詩集「けしのリフレイン」「ひよのいる風景」「氷見のように」「桃園の征夫」
・能随筆集「みな鼻のかたちにて」「能入門(共著)」淡交社。「能楽タイムズ」などに評論掲載。

 「能に描かれた人間群像」と大上段に振りかざしたのですが、「・・・歴史風土」としたほうが良かったのではないかと思います。中世入り口に生きた女たち、その2名の女性についてお話させていただこうと思います。能は、今さら申し上げるまでもないのですけれど、14世紀後半から15世紀前半にかけて、金閣寺を建てました足利義満の絶大な庇護を得て、観阿弥・世阿弥という天才的な親子が、現代でいう「能」という古典芸術をほぼ確立させました。「能とは何か」と聞かれたら、舞と謡を主体とした舞歌劇・・・ですから、「オペラとかバレエ、ミュージカル、もっとくだけて言えば歌謡ショーだと思ってください」と申し上げています。世阿弥という人は、大変な美少年でして足利義満にとても寵愛されまして、美少年が美しい声で歌を歌って、美しい姿で舞を舞っていたら、当時の貴族はうっとりとして見ていたことと思います。今の氷川きよしみたいなものでしょうか。そして、現代までにおよそ2千数百曲書かれていますけれども、現代上演されるのが、そのおよそ10分の1の、200数十曲が残っています。その中に、鬼や妖精などいろいろなものが出てまいりますが、その中で人間が何人か出てまいりまして、その歴史の中を生きる、或いは物語の中を生きて、人を愛するということはどういうことか、人が生きるということはどういうことか。また戦とか、この世の無常とは何かということをしみじみ語りかけてくるというドラマなのです。今日は、中世の入り口、日本の平安時代は貴族政治ですけれど、だいたい平安250年とか300とかいわれます。その平和が崩れまして、平家・源氏が台頭いたしまして、やがて武家政権の時代がやってまいります。男たちも女たちも大変な苦労をしてこの時代を生き抜かなければならなかった。その代表が平家物語であるわけです。男たちは戦の外側を働いたのですけれど、女たちは戦の内側で生きなければならなかった。その女たちがどんな生き方をしたか、ということで、「巴御前」、「静御前」この2人をお話したいと思います。まず、巴御前からお話しいたします。昨年、岐阜県美術館で前田青邨展がございました。一番最初の作品が「巴」でした。青邨の最初の作品はずっと前は、17歳の「袈裟御前」というのだったのですけれど、近年になりまして、個人の所蔵である「巴」という絵が出てまいりまして、一年早くなりまして、一番最初の作品は「巴」であるということになりました。ご覧になった方あると思いますけれども、平家物語で、「巴は色白くして、髪長うして・・・」という、大変美しい女性であったと同時に、男をも凌ぐ一騎当千の兵(つわもの)であって、物語によれば、2人の兵(つわもの)を両脇に抱えて鉢合わせにしたら、その兜がこっぱ微塵に壊れてしまったとか、あるいは敵の首を馬の前輪に押し付けて首をねじ切ったとかいう怪力の持ち主だということになっていますけれども、前田青邨の描いた巴は、馬に乗った本当に優しく美しい女性なのです。彼女はご存知のとおり木曽義仲の愛人でした。木曽義仲について少し申し上げますと、12世紀前半を生きた人です。平家が横暴を極め、それを見かねて源氏の残った子どもたちが、平家追討ののろしを上げようといたします。一番先に平家追討ののろしを上げたのが、源頼政です。岐阜県関市の蓮華寺というところに、頼政の首塚がございます。以仁王(もちひとおう)の乱です。これは後白川法皇の息子が乱を起こしたのですね。その次に頼朝が伊豆で兵を挙げますけれども、石橋山で敗れます。これが能の「七騎落」になります。岐阜県の大松美術館にこの「七騎落」の絵がございます。ご覧になってみて下さい。その後に1180年9月、木曽に潜んでおりました木曽義仲が兵を挙げます。木曽義仲は頼朝とか義経の従兄弟にあたる人なのです。大変颯爽とした美男子でございまして、京都に攻め上って1180年に戦(いくさ)を起こして1183年には平家を都落ちさせてしまったのです。そこまではいいのですけれど、木曽の山の育ちですので、荒っぽくお行儀が悪いです。それから、何も持たないで出てきたものですから、略奪などをするということで、後白河法皇に疎まれまして、頼朝たちに今度は義仲を討てと命ずるのです。後白河法皇は常にこういう人なのですね。最初は平家と源氏を戦わせて、平家を滅ぼして、そして今度は、源氏が勝ちますとまた戦わせて武家の勢力を削いでいく。そのことによって、天皇の力を保とうとする人だったのです。だから義仲が平家を追討して都落ちさせたら、今度はその義仲を討つように頼朝に命じました。その頼朝が弟の義経に命じまして、10万騎の大軍を率いて義仲を追い詰めていくわけです。それが粟津ヶ原の合戦です。粟津ヶ原と申しますと今のJR西日本線の石山から瀬田辺りの山際の一帯、琵琶湖の西岸それから瀬田川の辺りで、この辺りで戦争をしました。散々に敗れまして一番最後は義仲と兼平と巴の3人だけになってしまいます。巴は木曽を出てからずっと付き従っていたのですが、「最後に一緒に死にたい」と巴が言ったら、義仲は、「女と一緒に死んでは、征夷大将軍の位をもらった自分の末代までの恥。もしお前が死ぬのだったらお前との縁はこれっきりだと思え」・・・ということで、巴は泣く泣く義仲の形見を抱いて木曽へ落ちていく・・・という結末なのです。そのことを能に仕立てたのですけれど、能では、お坊さんがやはり木曽から出てまいりまして、粟津ヶ原へさし掛かかり、義仲を奉ってある神社の前に参りますと、美しい女がさめざめと泣いているのです。それで訳を聞きますと、「実は私は巴の亡霊で、そして、義仲と一所の死を叶えられなかった。その悲しさが執心になって残っていて、ここに来てお弔いをし、泣いているのです。」後半は武将姿で現れます。義仲が最後に自害しようした時、氷が張った深田に馬がはまってしまいます。能のほうでは、巴は、「私が戦っている間に自害をなさい」と言って、能舞台で凛々しく薙刀で戦い、その間に義仲を自害させるという形になっています。そして、義仲が遺した太刀と小袖を身につけます。それまでつけていた鎧、兜を全部脱ぎ、小袖に白装束を重ね、形見の太刀を抱き、深い黒い笠に身を隠して木曽へ落ちていきます。お坊さんの前でその長い愛の物語を語り終えた巴が、「ただ一人落ち行きしうしろめたさの執心・・・」自分ひとりだけが落ちて行った。義仲は兼平と一緒に死んだのです。ところが自分だけが女だから一緒に死ねなかった。その執心が残って何度でもこうして能の舞台で、回向を弔いに来るのです、と言って木曽に落ちていく姿を見せます。笠に身を隠して落ちていく姿というのは、能で見ていましても、いつ見ても哀れで女というのはこんなにも悲しいものかと思います。平家物語では「巴」と言われていますが、皆さまは「巴御前」とお聞きになってますでしょう。「御前」というのは、静御前でもそうですけれど、愛するものを失って後、語り御子として、その人のことをずっと語って回向とする、そういう者たちを御前という名前で呼ばれている。これは水原一先生という平家物語の研究家でいらっしゃる先生がおっしゃいました。彼女のお寺は木曽にありますが、彼女のお墓をずっと追いかけたことがあります。あちらこちらに巴の墓がありま。彼女が義盛の奥さんになったとかいろんな伝説がございますけども、それは分かりません。ただ、彼女がそうして義仲のことを語り歩いたから、義仲最後のことが平家物語にも書かれるし、色んな物語にも、歌舞伎にもなっていくということです。御前としての大きな力を持っていたといえるでしょう。
 その次に「静御前」です。申し上げるまでもなく源義経の愛人です。この義経と静ですが、物語で聞くと長く暮らしていたように思われますが、義経と静御前の出会いは、義経が壇ノ浦の合戦で、平家を追討します。その後、凱旋将軍として都へ帰ってきた頃です。ですから、平家が滅びたのが1185年の3月ですから、4月か5月頃です。神泉苑という二条城の横にある池が、今もございます。その頃に後白河法皇が、そこで雨乞いの奉納をします。都の100人の舞姫を集めたのですが雨が降らなかったのです。そこで静という都のトップバレリーナですね、白拍子が舞を舞ったところ、三日三晩、豪雨で雨が降り止まなかった。というわけで後白河法皇に大変褒められたのです。凱旋将軍として都に帰ってきた義経と都のトップバレリーナとしての白拍子、共に全盛の時代の出会いだったのです。ですから、おそらくは5月以降、6月頃かもしれません。ところがそうやって帰ってきた義経を、後白河法皇がまた、頼朝に、今度は義経を討てと命じます。義経は頼朝に追われる身になるのです。いっしょになってから、すぐその年の9月には義経の館を頼朝の軍勢が襲います。その時は静御前の機転で義経を助けます。静御前はいつも義経を助けています。そしてその年の11月、これもやはり今、大松美術館に絵がございます。今の尼崎あたりから、頼朝に追われた義経が船で逃げます。ところが沖へ出ますと、平家の亡霊たちが現れまして、暴風雨になり船が難破しそうになります。絵をご覧になっていただくと、荒れる海の中に船がこう縦になっていまして、小さく静御前が描かれています。弁慶も描かれています。船は難破してしまい命からがら今度は吉野へ逃げます。ところが吉野とて安住の地ではございません。ですから、1185年の11月16日、義経は自分の持っている金銀財宝をすべて静に与えまして自分だけ行こうとします。静が蔵王堂の前で、僧兵たちに捕らえられたのはその翌日のことなのですね。その時、彼女はお供の者や財宝を全部奪われて、持っていたのは義経の紫檀(したん)の胴で羊の皮を張った鼓ひとつだけです。東鑑(あずまかがみ)ではその時の彼女の姿を奇怪千万と書いています。というのは、彼女の衣の前には雪が積もってそれが解けて、朝日が当たって氷柱(つらら)になってきらきらと輝いていた。すさまじい姿で現れたのですね。この時の彼女は16、7歳で既に義経の子を身ごもっていました。その若さで、一晩中、蔵王あたりの峠をさ迷い歩いたということですから、ひたむきな義経への愛だったわけです。そして僧兵に捕らえられた彼女は、舞を舞っている間に僧兵たちの目をくらまして、吉野から義経を脱走をさせます。吉野の蔵王堂から少し上上がったところに勝手神社というところに今も舞塚というのがございます。そこで神様に奉納する舞を僧兵たちに見せます。大変美しい人が舞を舞い、しかも僧兵の目をくらますために、普通は白拍子は黒い烏帽子(えぼし)を被りますが、その時は金色の烏帽子を被っていました。きらきら輝いてきれいで、僧兵たちはそれを見てうっとりとしています。しかも美女なのです。長い長い「法楽の舞」を舞っている間に義経を無事に吉野から逃したのです。今、静烏帽子といいますと金色の烏帽子のことをいいます。そして、静はそこで僧兵に捕らえられて鎌倉の頼朝のところへ送られます。翌年の1186年の4月8日、頼朝に鶴岡八幡宮で舞を舞うよう命じられます。皆さまよくご存知の「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」・・・もう一度昔のような時代を迎えたい・・・という歌を歌って舞ったわけです。ですから頼朝は烈火の如く憤ります。しかし、妻の北条政子が「私たちもかつて伊豆に住んでいたときに同じような思いをしたのではありませんか」と取り成し、ことなきを得るわけです。命を懸けて静御前は「しづやしづ・・・」と舞い上げたのです。静御前はその年の7月に男の子を生みました。男の子ですから、直ちに取り上げられ、由比ガ浜へ沈められます。静は狂気の如く泣き悲しみますが、その時の9月に鎌倉から再び都に送り帰されます。その時に北条政子は、静御前のために長持にたくさんの装束とか財宝を持たせて、都へ帰したということです。ですから、巴御前、静御前いずれも愛するもののために自分の持っているあらゆる才能を投げ出して全身全霊で男たちのために尽くしたのですけれど、一方で権力者の頼朝の妻である北条政子もまた、そういうように女らしい愛を持っていたといえます。静御前の消息は、都に着いて、多分18、9歳くらいでしょうが、それ以後行方知れずなのです。ただ、各地に静の墓がございます。やはり彼女も巴御前と同じように自分が生きている間は、義経の身の上を語り歩いたであろうと思われます。いずれも中世の入り口を生きた女性たちですが、男にも勝る激しい気性と非常に激しい才覚をもって、男たちをかばい続けながら生きてきました。ですから、歴史の中で英雄といわれる人たちは、意外とこういう優しいたおやかな女性によって支えられてきたことを、私はとても尊く思います。
2007-2008週報/年間行事予定

岐阜エトスロータリークラブ 2007〜2008年度
例会日 毎週月曜日 12:30〜13:30
例会場 岐阜グランドホテル TEL:058- 233-1111
〒502-8567 岐阜市長良648
事務局 〒500-8833 岐阜市神田町2丁目  岐阜商工会議所3F
TEL:058-264-9235  Email:ethos@wishclub.jp
会長・大野茂夫  会長エレクト・副会長・尾藤英邦  幹事・柳原英三  会報委員長・栗林裕樹