WEEKLY REPORT
第630号  No.34  2006年4月17日
超我の奉仕

前例会の記録
本日のプログラム
次例会の予定
○4月10日(月)第629回
○ソング:我等の生業
○行事:卓話
(担当 出席・親睦)
○4月17日(月)第630回
○ソング:それでこそロータリー
○行事:卓話
(担当 S.A.A)
○4月24日(月)第631回
○ソング:手に手つないで
○行事:次期会長セミナー
及び地区協議会報告
(担当 会長・幹事・会長エレクト)

会長挨拶 早瀬正英会長
 今日は、樫詰会員の卓話「シルクロードの旅人II」です。人生はすべて”旅人”というくらいに、いろいろなところへ行っておられて、いつもうらやましく思っています。今日もまたよろしくお願いします。
 来週はSAAの担当で、柳原さんのご友人ということで、前副知事の奥村様に卓話に来ていただきます。柳原さんのずっと昔からの親友だそうです。非常に期待しております。
 その次、4月24日は高橋次期会長の会長セミナーの報告と、地区協の報告です。どんどん次期に入っていっております。5月14日は、夫人同伴ウォークラリーです。エトスクラブあてに許可証が届きました。公共の施設でやることはいろいろ大変で森副委員長にはご足労願っております。ぜひ、皆さんご夫人同伴でご参加願いたいと思います。

来客紹介 出席報告
本日のホームクラブ 先々週の補正出席率
  17/27   62.96%   20/27   74.07%

ニコBOX (高橋陽一委員長)
◇大野茂夫君
 久し振りに孫が遊びに来ました。
◇横山榮祐君
 ボードの季節も終り、剣道に専念したいと思います。桜も散り始め、山にはコブシの花が満開です。
◇高橋陽一君
 理事杯の一次予選、何とか通過しました。来週2次予選があります。勝ち残っても23日の決勝には出られません。RCの地区協です。出席義務者のかた、お忘れなく。

委員会報告
◆米山奨学会委員会
 米山奨学生の受け入れが決まりました。ベトナムからのル・ロングマイさんという女性の受け入れが決まりました。カウンセラーには真鍋先生が就かれますので、あわせてよろしくお願いします。

内部卓話(担当:出席・親睦)
◆『シルクロードの旅人U』 樫詰庄二会員
 今日は写真を持って来ましたので、それを見ていただきながらお話したいと思います。
 シルクロードの出発点は、昔の長安・今の西安です。西の門、シルクロードの中国側の出発点です。ここを出発点として、中国の各地を通ってローマまでシルクロードが続いています。私はまだ、ローマまでは行っておりませんで、現段階では、中国の一番西の「カシュガル」まで行きました。日本からは約2万キロあります。
 この写真は玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)が、インドから経典を持って帰って収めた大雁塔(だいがんとう)というお寺です。それから、シルクロードは、コースとしては汽車で北京からカシュガルまで約1万4千キロくらい、3日くらいかかります。飛行機で行きますと、上海からウルムチという空港まで4時間くらいかかります。距離は5500キロくらいあります。そこが玄関口になります。汽車で行きますと、河西回廊を通り、「敦煌(とんこう)」には鳴沙山(めいささん)、月牙泉(げっかせん)、莫高窟(ばっこうくつ)とか、いろいろ観光地があります。莫高窟(ばっこうくつ)とは、こういうものでして、入り口の写真です。山に穴を掘ってあり、そこの中に壁画があります。1千くらいあるうちの490くらいが、入って見ることが出来ます。中の写真が無いのが残念ですが、中は写真撮影ができないことになっています。携帯もだめで、懐中電灯以外は持ち込めません。だいたい4世紀から6世紀頃に創られ、仏教を中心とした絵画が描かれています。
 これが玉門関(ぎょくもんかん)です。中国は金・銀よりも玉(ぎょく)という石のほうが高価とされています。ホータンというところでは、崑崙(こんろん)山脈から流れてくる雪解けの水に混ざって、白玉(はくぎょく)が流れてきてそれを拾うそうです。今では大規模に10メートルくらいの底から堀上げているそうです。
 こちらは万里の長城の漢代のものです。万里の長城は秦、明、漢の3代の皇帝によって造られました。これは敦煌の砂漠の中の万里の長城です。今は崩れまして、葦(あし)などが出ています。
 それから敦煌から天山山脈を通る天山北路、天山南路、玉門関を通るほうは天山南路(西域北道)、こちらは陽関(ようかん)といいまして、中国側の関所です。ヒマラヤのほうを回ってカシュガルまで行きます。どちらもカシュガルまで行きます。関所には、今はもう、こういうものしか残っておりません。これは関所を過ぎた砂漠です。敦煌の砂漠は砂利の砂漠です。私が昨年行きましたタクラマカン砂漠は砂の粒が非常に小さく、先日、風に乗って流砂になって飛んでましたね。これは砂漠の中の道路です。
 こちらは、トルファンの手前の「ハミ」です。ハミ瓜で非常に有名なところです。マルコポーロの東方見聞録に記されているところによると、男性の旅人に嬉しい町であったようです。
 砂漠はまったく木がない山がほとんどです。トルファンの有名な「ベゼクリク千仏洞」というのがありまして、やはり壁画があったのですが、列強国が持ち去ってしまって、今はほとんど残っておりません。先日、テレビ番組の「シルクロード」で、デジタル画像で復元した壁画を放送していました。非常にりっぱなものです。これがベゼクリク千仏洞です。トルファンで忘れてならないのが、火焔山(かえんざん)です。これは私もびっくりしましたが、火が燃えているように見えます。よく見ると岩肌が、雨が降らないのですが、風で削られ、岩そのものは赤い色をしています。西遊記で有名なところですね。
 これは敦煌のところで飛ばしてしまいましたが、鳴砂山(めいささん)という非常に有名な観光地です。ここの間に月牙泉(げっかせん)という砂漠のど真ん中ですが、湖があります。水が噴出しています。
 こちらは玉門関の関所を守っていた兵隊の食料用の倉庫です。朽ち果てています。当時匈奴(きょうど)とか突厥(とっけつ)ですとかの遊牧騎馬民族の侵入を防ぐために砂漠の中で守っていたということです。
 前後しましたが、万里の長城の中国側で、今の万里の長城は非常に観光客が多いのですが、ガイドに頼んで別行動をさせていただいて、私が選んだコースでもう崩れていてこれ以上行けないということろまで行ってきました。これが証拠写真です。
 これはトルファンにあります「高昌(こうしょう)」という国といいますかお寺の址です。玄奘三蔵が6世紀の初めに行った頃には、ウイグル族が既に住んでいたわけですが、仏教が非常に栄えており、高昌国王の麹 文泰(きく ぶんたい)にインドに行かずに、とどまるように説得をされます。今風にいえば顧問になってくれと言われます。玄奘三蔵は断食をしてそれを拒否し、旅立ったとされています。その当時王は怒ったということですが、金銭的、物的な援助をしたそうです。本を読んで分かりましたが、玄奘三蔵はそういうことに大変恵まれていた人だったようです。どこへ行っても援助を受けられた。人格も立派な高僧であったわけですね。行く先々で経済的援助、物的援助、兵隊を付けてもらい安全に旅をしたそうです。弁機(べんき)という弟子が書いた「大唐西域記」という本に詳しくそういうことが書かれています。
 これは前回にもお話しました、クズルガハの烽火(のろし)台です。漢代に造られたものです。高さが16メートルくらいあったといわれています。こういう形で残っているのは、唯一ここしかありません。小さい頃から行きたくてやっと念願叶って行ってまいりました。この上がですね、生活の住居になっています。敵が攻めてきた時、合図をする間、生きながらえるためです。烽火(のろし)台といいますが、狼煙(のろし)というように、狼の字を使うこともあります。これは狼の糞を烽火の燃料にしたということだそうです。その当時は玄奘三蔵も書き記していましたが、人間も(盗賊など)も怖かったそうですが、動物も砂漠の中を行くには大変だったそうです。
 これは同じクズルガハにあります千仏洞です。こちらに穴があいています。常に乾燥していまして草木が1本もありません。カビも生えずにそのまま残っています。ただし、イスラム王の関係で、仏様の絵は、ほとんど目がくり抜かれた状態で残っております。これはたまたま結婚式に出会った写真です。クチャというところです。
 これは途中、飛行機から撮った写真です。これが有名な天山山脈です。高いところで7000メートルくらいあります。
 ちょっと飛びまして、砂漠を横断しまして、カシュガルの手前に「ホータン」というところがあります。ここは仏教国でして玄奘三蔵も行っています。お寺がだいたい50くらい、お坊さんが5千人くらいいたということが書いてあります。それがお寺は今ほとんど無くなりまして、白玉(はくぎょく)が流れてくる川原の中です。
 これはタクラマカン砂漠です。非常に細かい砂で、カメラが回らなくなることがよくあるという、それくらい細かい砂です。高さは波打っていまして、高いところでだいたい20メートルくらいありますので、車でそのまま走って行くということはできないんですね。これは私が写っていますが、タクラマカン砂漠を通るいわゆる公道といわれている道です。約700キロくらいあります。取付道路が今約1千キロあり、12時間かかりました。道のまわりは緑化されています。だいたい20メートルおきくらいに井戸を汲み上げるポンプが設置されています。ここに黒い水道管が何本も通って、そこから時間ごとに水が出るようになっています。中国の山はこのように、ほとんど木がなく荒涼とした感じです。
 これがボゴダ峰といいまして、ウルムチの空港を下りる1分くらい前に見える山です。5500メートル位の高さがあります。この麓に天池(てんち)といいまして2500メートル位の、日本の乗鞍の頂上位の高さでしょうか。そこに大きな湖があります。夏でも非常に寒く冬の格好をしていかないといけないくらい寒いところです。
 これは天山山脈の氷河、万年雪です。こちらは、山から砂漠へ雪解け水が流れています。中国は非常に広い国土ですが、この写真を見ていただくと山の頂上が、きれいに開発されています。こちらは西安から1時間くらい飛んでいる間の写真です。山が好きですから、山の写真がいっぱいあります。
 それからこれは有名な黄河です。よく龍に例えられます。これは、火焔山の上空です。見て分かりますが、山に色がついています。ウルムチからクチャまで約1時間くらいの飛行ですが、50人乗りくらいの飛行機が飛んでいます。非常に低くく、山すれすれに飛んでもらいますから、よく見えます。これはクチャにあります「スバシ古城」といういわゆるお寺です。ほとんどお寺らしきものは残っていません。こういう遺跡になっています。6千人くらいのお坊さんがいて、お寺が80くらいあったといわれています。雪解け水で川原になっています。ここも玄奘三蔵が通っていますが、塩の川でして、この白いのは岩塩です。まったく草も木もない荒涼とした山です。
 これはクチャの市内から「キジル千仏洞」へ行く途中です。これはその途中の天山山脈です。砂漠のご真ん中ですね。これが有名なキジル千仏洞です。玄奘三蔵はインドへ仏典を求めて行ったわけですが、ここの鳩摩羅什(くまら じゅう)という人は、それよりも200年も前です。本来はインドの人で、お父さんは首相のような人でしたが、政治に嫌気がさしてクチャへ逃げてきました。クチャの王様の妹さんと結婚して、その子どもがこの鳩摩羅什(くまら じゅう)です。この鳩摩羅什(くまら じゅう)という人は、日本でも「法華経」なんかは皆さんご存知かと思いますが、インドの言葉で書かれていた「法華経」などを中国の言葉に訳した初めての人です。仏典の訳し方が、誰が読んでも分かりやすい言葉で訳したといわれています。シルクロードは日本まで関係していると言われていますが、仏教を広めようとした非常に有名な人です。仏教界では、玄奘三蔵が非常に有名ですが、この鳩摩羅什(くまら じゅう)も非常に有名なお坊さんです。玄奘三蔵はなぜ、そういう仏典があるのにインドへ行ったかといいますと、お釈迦様は自分はこういうことを言うけれども、広めるためには、「最後が一緒であれば良い。」と。ですから日本にも宗教の考え方は、ずいぶんたくさんありますね。空海、道元、日蓮、それぞれ違いますね。同じことなんですけれども。それで中国では仏教が広まったのですが、いろいろな解釈があって本当の宗教はどんなものなのか、その原典を訳したのが玄奘三蔵です。玄奘三蔵の訳したものが日本に入ってきたというわけではなくて、非常に標準的な仏典だということになっています。玄奘三蔵がインドへ行った当時は、外国へ行くことに重い刑が科せられていた時代で、いわゆる国禁を犯して行ったわけです。15年経って帰ってきた時は、その当時の皇帝に受け入れられたそうです。先ほど、旅行記「大唐西域記」は弟子が書いたといいましたが、なぜ弟子が書いたかと言いますと、玄奘三蔵は書くことを拒んだそうですが、王の命令に背くと殺されるので従ったということだそうです。
 これは、先ほどの川原です。雪が解けると水が流れます。白いのは全部、塩です。実際に川に入って舐めてみましたが非常に塩っ辛いです。ご清聴ありがとうございました。

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会長・早瀬正英  会長エレクト・副会長・高橋陽一  幹事・園部貴敏  会報委員長・杉江正光